2021/03/22
古典入門 百人一首カルタ【第6回】
日差しが暖かく、春の息吹が感じられる季節になりました。気温が上がると花粉が増えてしんどい、という人も多いかもしれませんね。しかし、冷たかった冬の風が少しずつ温度を取り戻し、色とりどりの花が蕾を綻ばせる春という季節はなんとも心浮き立つものだと思います。
ところで、日本の春といえばなんといっても桜の花ではないでしょうか。春の色といえば桜色と呼ばれる淡いピンク色が思い浮かぶ人も多いでしょう。古文では「花」といえば桜の花を指すと言われるほどに、古くから日本人にとって桜というのは馴染み深いものであり、長きにわたって愛されてきました。
今回取り上げるのは、そんな桜の花を詠んだ歌です。知名度の高い歌ではありませんが、美しい情景を詠んだ歌ですのでゆっくりと味わってみてください。
「高砂の 尾の上の桜 咲きにけり 外山のかすみ 立たずもあらなむ」
(現代語訳)
遠くにある小高い山の上にある桜が咲いたなぁ。人里近くにある山の霞は立たないで欲しいものだ。
文法と語彙
文法
・「咲きにけり」の「に」は完了の助動詞「ぬ」の連用形です。用言である「けり」に接続しているため、連用形に語形変化しています。
・「咲きにけり」の「けり」は詠嘆の助動詞「けり」の終止形です。「けり」は多くの場合、過去の意味で用いられますが、和歌の中で使われる場合や会話文中に出てきた時などは詠嘆の意味になる場合があります。
・今回は和歌の中で用いられているためにこれは当てはまりませんが、「にき」「にけり」などの形で用いられる場合、多くはそれぞれ完了、過去の意味になり、「〜した」「〜してしまった」などと訳します。
・「立たずも」の「も」は係助詞です。この歌では強意の意味で用いられており、文末の願望の意味につながっています。
・「なむ」は願望の終助詞です。これは未然形に接続するため、直前の動詞「あり」が未然形「あら」に変化しています。
語彙
・「高砂」は小高い丘や山を指します。現在の兵庫県にある播磨国を指す歌枕として使われることもありますが、今回の場合は単に山を指していると考えて良いでしょう。
・「尾の上」は丘や山の上のなだらかな平地になっている部分のことを言います。
・「外山」は奥山に対応させて外側にある山、すなわち人里から近いところにある山のことを指します。
歌の背景と鑑賞
それでは鑑賞に入っていきましょう。
この歌の作者は大江匡房です。権中納言匡房とも呼ばれますが、学者として有名な一族に生まれた人でした。和歌だけでなく漢詩や文学作品にも精通していたと言われ、立派に学者一族の血を引いていたようです。大江匡房は平安時代中〜後期に活躍し、後三条天皇に仕えていました。
学者であり博識であったにもかかわらず、この歌は複雑な技巧を凝らすことなく、ストレートに桜を見た時の感情を詠んでいます。遠いところに見える淡い紅に染まった山の色彩の美しさ。春の訪れを感じさせる優しい自然の景色。それなのに近くの山に霞が立ち込めてしまっては、せっかくの美しい景色が覆い隠してしまう。それが惜しいから霞が立たないで欲しいのだ、と歌うその気持ちは大変理解ができるでしょう。
日本人は"儚さ"や"もの寂しさ"に美しさや情緒を感じる心を持っていると言われます。散りゆくの桜、短命な蝉、雲に隠れる月、色づいた葉を落とす秋の木々、人気のない冬の朝。これらはどれもそのあっけなさや物悲しさゆえに心を揺さぶり、古くから日本人が味わってきた情緒と言えるものです。儚いから愛おしい。もの寂しいから味わい深い。大江匡房の詠んだこの歌の美しさの本質も、これに近いものがあるように感じます。
この歌は、上の句、下の句のそれぞれの終わりに詠嘆や願望の表現が用いられています。結びにこうした心情の込められた表現を用いることによって、詠み手の強い感動が伝わり、より雄大な景色が眼前に迫ってくるように感じられます。
遠くに見える美しい桜、ただでさえ短いその見頃であるのに、霞がたってしまえば途端に視界から消えてしまう。そんな儚い春の景色を楽しみ、愛する当時の人々の心がこの歌には反映されているように思うのです。
また、霞も春独特のものです。秋に立つそれは霧と呼ばれ、古文において霞と霧は異なる単語として扱われます。春にしか見ることのできない霞、それも同じく天候に左右されてすぐに移り行くもの。その儚さは桜と同じ性質を持っているものなのです。
儚さゆえの美しさ。日本人独特のその感性を、味わうことのできる美しい歌です。
いかがでしたか。パッと読んで訳しただけではいまいちわからないところのある和歌の意味も、知識を踏まえてじっくりと味わえば豊かな景色が脳裏に浮かびます。千年の隔たりはあれど、同じ国で生きている人間同士、その感性にはどこか通じるところがあるなんて、なんとも不思議で面白いものですね。
また、春霞と秋霧の使い分けは、古文を読む上でその季節を読み解くヒントになります。文中に使われているときには、注意して読むようにしてみてください。
桜を楽しめるのは一年のうちほんの僅かな期間です。勉強の合間のリフレッシュにでも、桜の和歌を味わいながら外を散歩してみるのもいいかもしれませんね。
<文/開成教育グループ 個別指導部 フリステウォーカー講師編集部:浅田 朋香>