2021/06/21
古典入門 百人一首カルタ【第9回】
気温も随分と高くなり、すっかり夏めいた季節になりました。百人一首には季節の歌がいくつも収められていますが、実は夏の歌はとても数が少ないというのはご存知でしょうか。今でこそ海や花火、スイカに風鈴にお祭りと多くの風物詩を有する夏ですが、百人一首が編まれた時代にはこうした風物詩は存在しなかったためでしょうか、夏を題材に詠まれた歌というのは案外少ないのです。今の時代だからこそ感じられる季節の風情というのは考えてみれば贅沢なものですね。皆様もこの夏は、その季節独特の風や空気や風情を感じながら過ごしてみるのもいいのではないでしょうか。
さてそんな事情もあり、今回取り上げる歌も前回に引き続き、季節の歌ではなく情熱的な恋の歌です。その辺りも後でじっくり掘り下げていきますので、まずは文法の確認から一緒に鑑賞していきましょう。
「わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢わむとぞ思ふ」
(現代語訳)
もうこんなにも貴女との恋に思い悩んでしまったのだから、今となってはもう何があっても同じことだ。難波に立っている
文法と語彙
文法
・「わびぬれば」の「ぬれ」は完了の助動詞「ぬ」の已然形です。「ぬ」は連用形接続の助動詞であるため、直前の動詞「わぶ」は連用形に変化しています。
・「わびぬれば」の「ば」は順接の意味を持つ接続助詞です。直前の助動詞「ぬ」が已然形であるため、「已然形+ば」の順接確定条件の用法となっています。
・「今はた」の「はた」は「やはり、もう、また」などの意味を持つ副詞です。
・「難波なる」の「なる」は断定・存在の助動詞「なり」の連体形です。この歌では存在の意味で用いられており、「難波にある」という訳になります。
・「逢わむ」の「む」は意志の助動詞の終止形です。「む」は未然形接続の助動詞であるため、直前の動詞「逢ふ」は未然形に変化しています。
・「ぞ思ふ」の部分は、強意の係助詞「ぞ」が末尾に係り結びを起こしています。そのため、「思ふ」は終止形ではなく連体形の形になっています。
語彙
・「わぶ」は「嘆く、思い悩む、苦悩する」という意味の動詞です。
・「難波」とは、今も名前が残っている通り、大阪にある地名のことです。
・「みをつくし」は、一つの言葉の中に複数の意味を含んだ掛詞になっています。一つは、「澪標」という海や川に立てられる水先案内の標識のことです。水の流れや水深を示すために使われていました。もう一つは、「身を尽くし」と表記され、「身を滅ぼす」すなわち「全ての力を使い果たす」という意味になります。
歌の背景と鑑賞
それでは、鑑賞に入っていきましょう。
この歌の作者は
元良親王の父親である陽成天皇の二代後に天皇となった宇多天皇には、
しかし、相手は仮にも天皇の妃、やはりというべきか二人の関係は明るみになってしまいます。現代にまで語り継がれるほどですから、日々様々な噂やスキャンダルが行き交う宮中においてもこの事件はそれなりにスキャンダラスだったのでしょう。バレてしまっては当然二人は会うことも叶わなくなってしまいます。
その時に元良親王が詠んで褒子に贈ったと言われる歌が今回の歌です。恋煩いに悩みに悩んでいたところに二人の関係が表に出てしまったところで悩ましいことに変わりはない、ただ貴女に逢いたいのだと情熱的に語りかけながらも、「みをつくし」の掛詞を盛り込んだ洒落た歌です。掛詞は三十一という短歌の短い字数の中により多くのメッセージを盛り込むための技法ですが、こうした技法をうまく使いこなすことは歌人としての腕の見せ所でもありました。元良親王は女好きだったと書きましたが、当時の恋愛は歌の贈り合いから始まるものでした。すなわち、女好きで多くの恋を経験していた元良親王は歌の腕も相当なものだったということになります。スキャンダルとして明るみに出てしまった相手に、さりげなくも洒落っけのある歌を贈るほどには恋愛慣れしていたのだろうということが垣間見える歌ですね。
いかがでしたか。今回の歌は、掛詞や係り結びといった和歌に多い修辞技法に加えて様々な文法事項が盛り込まれた、非常に勉強に有意義な歌なのではないかと思います。背景を踏まえた歌の内容は、間違えても真似してほしくないところではありますが、その文法内容についてはとても参考になる点が多い立派な歌ですので、今回紹介しました。
これからまだどんどん暑くなりますが、くれぐれも熱中症に気をつけて、有意義な夏を過ごしましょう。
<文/開成教育グループ 個別指導部 フリステウォーカー講師編集部:浅田 朋香>