2022/09/26
考えよう③「テセウスの船~あなたは誰?・前編~」
ギリシャ神話に出てくる、アテナイの王子テセウスの話をしましょう。
クレタ島に棲む半人半牛の怪物ミノタウロスは、アテナイの人間を毎年生贄として捧げさせていました。それを知ったテセウスは、怪物を退治すべく、生贄を運ぶ船に自ら潜り込み、ミノタウロスの待つ迷宮ラビュリントスへと足を踏み入れました。
テセウスは紆余曲折の末、怪物の討伐に成功し、迷宮からも脱出することができました。彼は無事、船でアテナイへと帰還すること相成ります。
それから時は流れ――テセウスの船は老朽化が進んできました。船は修理に出され、いくつかの部品や木材を新品と交換することになりました。
さて、ここからが問題です。ある時、船の全てのパーツが新しい物と交換され、テセウスの時代の物が何一つ無くなってしまいました。この船は、テセウスの船と同じ船と言えるでしょうか?
さらに、テセウスの船は完全に新品のパーツに置き換えられましたが、古いパーツが全て捨てられずに残っていたのです。その古いパーツだけを使ってテセウスの船を再建したとき、テセウスの船が二隻ある事態が発生しました。
さて、どちらが本物のテセウスの船でしょうか? どちらかに「テセウスの船」と名付けるなら、それはどちらでしょう?
あなたはどう考えますか?
そして、それはなぜですか?
さぁ、
はじめに
思考実験を通じて、哲学への興味や深い思考へと誘う『考えよう』の時間がやってまいりました。「思考実験って何?」と思った方は、「考えよう①」の記事をご覧ください。
今回から二回に渡って、「あなたは誰?」というテーマで皆さんと一緒に考えていこうと思います。
テセウスの船を考えよう
この思考実験は、ギリシャの歴史家プルタルコスによって投げかけられた問いで、同一性の問題を語るときにはしばしば話題に上がります。同一性、つまり「同じであるとはどういうことか」という問題について、まずは見ていきましょう。
同じ機能、同じ材質
ここに木製の船があります。しかし、その船から引っこ抜かれたマストは、「船」ではありません。
また、水槽に海水をめいっぱい貯めました。この海水から、コップ一杯分の水をすくいます。このとき、水槽にあるのも、コップに入っているのも、両方「同じ」海水です。
船と海水では、根本的に異なるのです。
船の場合は、船全体が、「同じ」種類であると判断するベースになります。船は、船の機能や目的によって、「同じ」かどうか区別されるのです。海水は、「海水全体」というのが存在しません。よって、「同じ」かどうかの判断材料は、材質なのです。
このような区別を、哲学の世界では、存在論的区別と呼びます(ちなみに、この区別が、英語の可算名詞・不可算名詞の違いなのです)。
こんな質問も考えてみましょう。
Q1.木製のコップが提示され、「これと『同じ』ものはどちらですか」と問われました。
①鉄製のコップ ②木製のキューブ
Q2.ゼリー状の物体を丸型に固めたものを提示され、同じ問いが繰り返されます。
①木屑を丸型に固めたもの ②ゼリー状の物体を星型に固めたもの
あなたはどう答えますか?
二つの問いは、認知科学などを研究されている今井むつみ氏が『ことばと思考』という本の中で紹介していたものを参考にしています(今井氏の実験は、同一性の問題を扱うために為されたものではなく他の目的がありますが、詳しくは原著参照)。
今井氏が実際に行った実験だと、日本語を話す人の場合、Q1は①、Q2は②を選ぶ割合が多いとのことです。
では本題です。テセウスの船でも、この区別が適用できるでしょうか?
ここにテセウスの船があります。
①元の船と同じ材質で作った新しい船、②元の船を再利用して作った家、があるとします。「これと『同じ』ものはどれですか」と問われ、あなたはどう答えるでしょうか。
――「どちらも違う」という気がするのは筆者だけでしょうか!?
しかし、ただの木製の船なら、①が「同じ」だと答えられると思います。つまり、テセウスの船とただの木製の船の違いは、辿って来た歴史にあり、それが本質なのではないでしょうか。
つまり、テセウスの船と「同じ」ものの条件は、テセウスの船の歴史を共有しているものであることになります。
そう考えると考えやすくなるかもしれません。パーツが全て取り替えられた船と、元のパーツで再建された船とでは、後者が「本物」なのでしょうか。実はそう簡単にもいかないのです。
身の回りの同一性の問題
同一性の問題を語る上で、語りつくされたことであるかもしれませんが、鹿苑寺金閣のことを紹介しないわけにはいかないでしょう。
ご存知の通り、鹿苑寺金閣、通称金閣寺は、室町は足利義満の時代に建立されたものです。その後何百年とその荘厳な佇まいを誇示してきた金閣ですが、1950年7月2日、放火により焼失しました。現在残っている、歴史の教科書にも載っているあの写真の金閣は、再建されたものなのです。
しかし我々は新しい金閣を「同じ」金閣として大切に考えているはずです。そうでなければ観光名所にはなりえません。むしろ、金閣ではなくとも、多くの歴史上の建造物――伊勢神宮や出雲大社のような、修理や再建を繰り返したものでさえ、我々は「歴史的価値」を見出しています。しかし、修繕に使われた材料は、その建造物の持つ歴史を共有していません。
「長い歴史を持つ建造物の一部になるのだから、歴史も結果として共有しているのだ」という考えなら、完全にパーツが入れ替わったテセウスの船も、「同じ」と認めなければなりません。両方「同じ」ということはありません。元々は一つだったのですから、細胞分裂のように増えたりはしないのです。
さらに。
これを読んでいる受験生の皆さん。志望校は決まっていますでしょうか。その志望校のことを調べたことがあるでしょうか。高校だろうと大学だろうと、ホームページを調べてみると、創立〇〇年というのが書いてあるはずです。
歴史のある学校では、創立当時とは先生たちは当然違うでしょうし、もしかしたら建物も大きく建て替えられているかもしれません。それなのに皆さんは「同じ」ものだとして考えていないでしょうか。先生も建物も全て違うのに、「同じ」と言えるでしょうか。
全てのパーツを入れ替えたテセウスの船を「元と同じ」と考えるなら、中身に着目せず、ブランドや偏差値だけで選んでしまうのも軽率ではないのかもしれません。しかし、「違う」と考えるのであれば、たとえ名門校だろうと、昔の名声などあってないようなものなのでしょうか? 大切なのは、その学校が「今」どうであるかであり、ブランドではないかもしれません。
自身の進路を考えるときは、ぜひ、テセウスの船のことも思い出してみてください。「同じ」であることを考えることが、意外なところで役に立つかもしれませんよ。
あなたは誰?
お待たせいたしました。ここからが大事な話です。
人間の身体は、約60兆もの細胞で作られています。そしてその細胞は、少しずつではありますが、代謝によって入れ替わっていくのです。血液は約四か月で、骨は約五か月で全ての細胞が生まれ変わるのです。
そう考えると、たとえば三年前の自分と、現在の自分は、まるでテセウスの船のように、全く違う細胞によって形作られていることになりませんか?
テセウスの船が修理前と修理後で「違う」と考えたならば、「あなた」は「あなた」
ではないということでしょうか?
あなたはどう考えますか?
そして、それはなぜですか?
――さぁ、
次回予告・自己意識について
学校の例で、先ほどは言及しなかったことがあります。それは校風や校歌です。たいていの場合、設立当時の理念というものは、(たとえ有名無実だろうと)残っているはずです。それが残っている限り、その同一性は失われていないといえるかもしれません。そうであるならば、テセウスの船はテセウスの船たりえるかもしれません。
学校における校風、あるいはテセウスの船の歴史とは、アイデンティティのようなものです。同一性の問題を、次はアイデンティティという面から考えていきましょう。
さらに、テセウスの船と人間では、実は大きな違いがあります。人間は、「考える」ことができるのです。
17世紀フランスの偉大な哲学者ルネ・デカルトが「我思う故に我在り」と言ったように、私たち人間は、「私は私である」と考えることができるのです。
一年前や昨日の私、今日の私、あるいは明日や一年後の私も「同じ私」である、と、皆さん思っているはずです。このように、他のものと区別して自分という存在を考えられることを、哲学の世界では自己意識と呼びます。テセウスの船は船ですから、考えることができません。したがって自己意識を持ちようがありません。
ということは、たとえ細胞が全て入れ替わろうとも、人間は自己意識によって、「私」は「私」であると高らかに宣言することができるのかもしれません。アイデンティティという一本の柱がずっと貫いている限り、あなたはあなたでいられるのでしょうか。
ですが、自己意識さえあればよいのでしょうか?
自己意識を持たないどころか鏡像認知(鏡に映った自分を自分と理解できること)さえできないころの赤ん坊と、今のあなたは「同じ」ではないということですか?
もっと極端なことを言えば......今あなたが「あなた」だと信じているそれは、本当に昨日のあなたと「同じ」ですか? 自信をもって断言できますか? この前の台風の中、雷に打たれた記憶は?
......
後編に続きます。
参考文献
今井むつみ『ことばと思考』(岩波書店, 2010)
(我々の認識は言語によって決められるのか、という言語学の問いを、認知科学的見地から検証した本。とても面白いのでおススメ)
<文/開成教育グループ 個別指導統括部 フリステウォーカー講師編集部:仲保 樹>