2022/10/17

考えよう④「スワンプマン(沼男)~あなたは誰?・後編~」

嵐の中、一人の男が歩いています。帰路を急いでいるようです。

そんな彼をある不運が襲います。落雷に打たれ、命を落としてしまったのです。彼の身体は、すぐそばにあったのぬかるみに倒れ伏しました。

しかし奇跡が起こります。再び雷が落ちたかと思うと、その電気のエネルギーは、彼の遺体と沼の泥との間に特殊で不可解な化学反応を起こし、みるみるうちに泥が人間の形に作り替えられていくではありませんか。

男は、ふと目を覚まします。「どうして服が泥まみれなのだろう」と小首をかしげますが、まぁいいかと言った風に、再び帰途につくのです。

彼は、雷によって沼から産まれた怪物スワンプマン(沼男)になってしまったのです。スワンプマンは、身長・体重、指紋に至るまで、男を完全にコピーしています。記憶や思想信条についても、全く彼と同じです。ただし、「オリジナル」が雷に打たれ死亡したことは知りません。家族や恋人が見ても、彼がスワンプマンで偽物だとは気付きません。スワンプマン自身も、自分がスワンプマンであると気付いていません。彼はいつも通り家に帰り、シャワーを浴び、ベッドに潜り、朝起きて会社に行き、同僚と談笑するのです。

さて、彼はいったいでしょうか?

さぁ、考えてみましょう・・・・・・・・ 。たとえそれが、答えのない問いであろうと。

はじめに

思考実験を通じて、哲学への興味や深い思考へと誘う『考えよう』、第四回目は「あなたは誰?」後編です。前編をまだお読みになっていない方は、先に下のリンクから、そちらをご覧ください。

前編では、テセウスの船という思考実験を挙げ、同一性の問題と、「あなたは誰?」というテーマについて考えていきました。そこで、自己意識という考え方が出てきました。「過去現在未来で変わらず自分は自分である」という考えのことです。しかし、今回の思考実験は、その考えを揺るがすものなのです。

スワンプマンを考えよう

スワンプマン(沼男)と呼ばれるこの思考実験は、1987年に、アメリカの哲学者ドナルド・デイビッドソンが考案したものです。

この思考実験が実に恐ろしいのは、「自分もスワンプマンかもしれない」という不安につきまとわれてしまうところにあります。スワンプマンは、自身がスワンプマンであると認識することができないからです。

自己意識のことを考える前に、以下の議論についても考察してみましょう。

「材質が異なるから、スワンプマンは自分とは全く別の存在だ」という反論については、前回も例に挙げた、細胞の代謝という話でさらに反論できそうです。つまり、細胞は常に入れ替わっているのだから、テセウスの船的にわれわれの身体は「同じ」ではありえません。細胞がまったく入れ替わることと、スワンプマンの身体になることには、大きな違いがあるのでしょうか。

「泥と細胞はまったく異なるから無意味な議論だ」と言うかもしれません。その場合は義肢について考えてみましょう。義手や義足をつけている人は、その部分を自分の一部であると認識していないのでしょうか。

自分の意思で完全に動き、また、意思によらない反応である「反射」にも対応できている「人工の身体や内臓」があるとしましょう。見た目も材質もメカメカしいものではなく、人間のそれとそっくりです。

何らかの理由で、義肢を装着するに至った人がいます。彼は問題なく義肢を扱えています。次に、不幸にも内臓を患ってしまい、内臓を人工臓器と取り替えることになりました。胃・肺・肝臓などが人工臓器に置き換わりましたが、幸いにも拒絶反応は起きませんでした。しかし時が経ち、老いてしまった彼は重病に重病を重ね、「心臓」「脳」以外が人工製品になってしまいました。来週の手術では心臓を、来月の手術では脳を取り替えるそうです。

彼は、いったいいつまで彼だったのでしょうか?

......異なる思考実験が入れ子になってしまいました。

では自己意識の話に戻りましょう。ポイントは、スワンプマンは自己意識を持っているということです。スワンプマンは自分自身がスワンプマンではなく普通の人間であると思っています。一年前や昨日の記憶を持ち、明日も明後日も普通の人間として生きていくと思っているのです。それは「あなた」も同じではありませんか? あなたは昨日もあなただったし、今日もあなたであるし、明日もあなただろうと思います。しかし残念ながら、スワンプマンも同じことを考えています。自己意識を持っている、ということは、あなたがあなたであることの証明にはなりません。

また、自己意識というアイデンティティには欠点があります。自己意識を持つ以前の状態、つまり高い知性を獲得する前の赤ん坊の同一性について保証できないのです。

赤ん坊のときにスワンプマンになってしまえば、成長するにしたがって、スワンプマンの状態で自己意識を持ってしまうのです。この問題をどう解決できましょうか? 生まれてから数年は記憶を保持していません。あなたはあなたのアイデンティティを確保できますか?

あなたは、あなたがスワンプマンではないと思いますか? 本当にそう言い切れますか?

それとも、もしあなたがスワンプマンであったとしても、「あなた」は「あなた」なのでしょうか?

あなたはどう考えますか?

そして、それはなぜですか?

――さぁ、考えてみましょう・・・・・・・・

量子テレポーテーションの思考実験

スワンプマンとは異なる思考実験ですが、次のようなものも考えてみることにしましょう。

量子テレポーテーションとは、電子などの粒子を量子もつれによって......。難しいので省略します。簡単に言うと、粒子のデータを読み取って、それと同じデータを他の場所でも再現させることです。テレポートやあるいはワープと言うとSFじみているかもしれませんが、実は、電子を部屋の中でテレポートさせることには既に成功しているのです。また、2022年のノーベル物理学賞は、量子論についての研究を讃えているものです。量子論はとても面白いので、調べてみてもよいでしょう。

閑話休題。思考実験を考えていきましょう。

テレポートが可能になった時代。技術の発展はついに、地球から火星の基地へと一瞬で人体を移動させることに成功しました。

テレポートの仕組みはこうです。たとえば地球側の転送装置の前に立つと、装置が人体のデータを読み取り、人体は量子単位に即座に分解されます。コピーされたデータは、火星の装置に時間差もなく送られます。そしてそのデータを基に、装置が量子を放出し、人体を再構築するのです。新しく作られた側は、顔や声や記憶もテレポートする前と全く同じになるので、人間にとっては、一瞬のうちに自分が地球から火星にテレポートしたと感じます。テレポートする人間が持っていた量子そのものを使用するのではないことに留意してください。同じ性質の量子を使うだけです。

ある時、この転送装置に不具合が起こりました。地球側でデータをコピーしてから人体を分解するのに、数分のタイムラグが生じてしまったのです。

それに気づかず、あなたは転送装置を使いました。するとどうでしょう。分解され消えていくはずの地球の「私」と、再構築された火星の「私」が同時に存在しているではありませんか。

身体が分解されるタイミングが数分遅れただけで、普段起こることと大差ないはずです。一瞬のうちに消えるか、数分後に消えるか、ただそれだけの違いなのです。それなのに、今、「あなた」は二人います

本当のあなたはどちらにいるあなた・・・・・・・・・・・・・・・・ ですか?

あなたはどう考えますか?

そして、それはなぜですか?

――さぁ、考えてみましょう・・・・・・・・

まとめ:自分について考える

「自分とはいったい何か」――これは、哲学の分野で長らく問われてきた問題です。自分の範囲はいったいどこからどこまでなのか。自分が着ている服、自分の持っている物、自分の義肢、それは自分なのかどうか。あるいは自分の「本体」はどこにあるのか。心(魂)なのか。身体なのか。脳なのか。精神と肉体はいったいどのような関係にあるのか。自分が自分であるといえるのはどういうときなのか......。この前後編では、「テセウスの船」「スワンプマン」という二つの思考実験を通して、主に「同一性」を問題にして、一緒に考えてきました。

これを読んでいるのが、中高生という、子どもから大人へのモラトリアムにいる人であろうと、保護者世代の大人の方であろうと、自分について考えることは、あなたにとって大いに助けになると思います。

自分を理解するということは、他者を理解することにつながっていきます。「あなたは誰?」という問いについての答えは、当然人それぞれで異なりますが、その答えはすべからく、「あなたは誰ではないのか」という考えに通じます。あなたはあなた以外の何者でもないし、あなた以外の人はあなたではありえません。あなたにとって大事な考えは、あなた以外にとってそこまで重要でないかもしれないし、あなた以外にとって大事な考えを、あなたは重視していないかもしれません。哲学は、万物に共通する基本の理論を導出しようとすることも多いですが、それだって、いつも絶対的に正しいとは限りません。

「あなたは誰?」という問いが、あなた自身について理解すること、そしてあなたの周りにいるあなた以外のものを理解することに寄与できることを望んでいます。答えを出すのを急がないでください。一生をかけて哲学していきましょう。思想史に残る哲学者が、あなたの哲学の手助けをしてくれるかもしれません。

終わりに

思考実験を通じて、哲学への興味や深い思考へと誘う『考えよう』第三・四回はいかがでしたでしょうか。

二回に渡った「あなたは誰?」編はこれで終わりとなります。この問題の答えは(少なくとも今のところは)ありません。

大切なのはあなた自身が考えることです。解答が分からないからといって、いつでも答えを書き写すなんてできません。人生に模範解答はないのです。あなたが思うあなたの答えを探すための手掛かりとして、この連載が今後役に立ってくれるのを願っています。

次回は、私がこの機械を外した後でお会いしましょう。ではまた。

......「幸せになれる機械」ですよ? あなたもどうですか?

<文/開成教育グループ 個別指導統括部 フリステウォーカー講師編集部:仲保 樹>