2020/10/26

古典入門 百人一首カルタ【第2回】

百人一首を通じて古典文学の魅力を垣間見してみませんか?

連載2度目になる今回は、秋らしく、月を詠んだ歌をご紹介します。

ちょうどこの記事を書いているのは中秋の名月の数日後なのですが、皆様は中秋の名月をご覧になりましたか?夜空に静謐に輝く満月を仰ぎ、その美しさを愛でる。なんて風流で趣深い文化でしょうか。月、というのはなぜだか我々日本人にとって特別なもののように感じます。そしてそれは、平安時代を生きた人々にとっても同じだったようです。

月は輝いていても欠けていても、陰っていてもなお美しい。輝くその様を思い浮かべながら鑑賞していきましょう。

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「秋風に たなびく雲の 絶え間より もれ出づる月の 影のさやけさ」

(現代語訳)

 秋風が吹いて横に長く伸びて流れる雲の途切れたところから、洩れて見える月の光がくっきりと澄み渡ってとても美しい

文法と語彙

文法

・「より」は体言に接続する格助詞で、〈...から〉という起点の意味で使われています。

・「もれ出づる」はダ行下二段活用の動詞「もれ出づ」の連体形で、「で///づる/づれ/でよ」と変化します。〈洩れて出る、こぼれてでる〉という意味になります。

語彙

・「たなびく」とは、雲や霞などが横に長くひいてただよう様を表す動詞の連体形です。この歌の場合は、風に吹かれた雲が細長く伸びている様子を表しています。

・「絶え間」とは、言葉の通り絶えた、すなわち、何かが途切れたその間のことを指します。

・「影」は、この歌の場合、「月の影」で区切って月の光のことを言っています。影には現代語と同じ影の意味もありますが、古文では今回のように隙間や薄い布から差し込む光のことを指す場合があります。

・「さやけさ」とは、清く澄んでいること、あるいは明るく晴れわたっている様を表す形容詞です。この歌の場合は、月の光が澄み渡っている様を表しています。

歌の背景と鑑賞

それでは、歌の背景について見ていきましょう。

この歌の作者は、左京大夫顕輔(さきょうのだいぶあきすけ)です。藤原顕輔とも呼ばれ、白河上皇や崇徳天皇が世を治めていた時代の貴族であり、公卿として活躍していました。この歌は、「久安百首」という歌会の場で詠まれ、新古今和歌集に収められています。藤原顕輔は当時優れた歌人として認められていました。

白河上皇や崇徳天皇の生きた時代は11001150年頃、今からざっと900年ほど前のことになります。当時の朝廷は上皇と天皇、その皇子たちとそれを取り巻く貴族の間で激しい政権争いが行われていました。

いつ時代が動くのか、いつ自分が追いやられて左遷されるのかも誰に権力が移るのかもわからない、心休まらぬ時代の流れの中にあって、季節の移ろいや歌を楽しむことは彼らにとって楽しみの一つだったのでしょう。900年もの月日を経ても、人々の心を楽しませるものには変わらないものがある、というのはなんだかとても不思議で感慨深く感じます。

うっすらと雲がかかった夜空、グレーがかった深い藍色の空に浮かぶぼんやりとした月の光。ひゅう、と肌寒い秋の夜風が吹いて雲が空の上を流れていく。やがて一瞬雲が晴れた隙間から覗く月明かりは先ほどまでとは違って明るく澄んで輝いている。そんなどこか物悲しくも美しい光景が目の前に浮かぶようです。

今では、団子を作って縁側に腰掛け月見を楽しむ、という月見の文化はほとんど過去のものとなってしまいました。時代の流れの中でイベントごとのあり方が変わってくるのは当然のことですし、きっと過去のものとなった月見の文化でさえも平安時代とはすっかり違うもののはずです。それでも、現在でも満月の日には人々は足を止め、空を見上げて月に見惚れる光景が見られます。どれだけ長い年月を経ても月は変わらずそこにあり、人々は変わらずそれに心を慰められ、また変わらず心惹かれるのでしょう。

 

いかがでしたか。前回紹介した歌と違い、今回紹介した歌は知名度もそこまで高くなく、また短歌独特の技法もあまり用いずに詠まれた歌です。字余りでどちらかといえば散文的な響きのある歌ですが、その中に込められた美しい自然の風景への称賛は、時を経ても我々の心にすっと染み込むものであります。

古文を学ぶ、というその言葉の中にはこうした古き良き日本の風景や自然の美しさを味わう意味も込められているのだと私は思います。難しい勉強に疲れた日には、一つ和歌を読んでその心を味わってみませんか。