2025/10/31

藤山正彦のぷち教育学【戦後の教育改革 The Educational Reform in the Postwar Period】

 ここ数年、学校の統廃合、募集停止などのニュースをよく聞くようになってきました。背景としては、日本の人口減少が大きく関わっています。出生数に関しては1949年の約270万人が最大でしたが、2024年度には686千人と、最大時の約四分の一にまで減少していますので、学校減少はしばらく続くことになります。戦後の人口急増期には子どもに教育の機会を与えるべく学校は増えていきましたが、少なくとも学校数に関しては時代が逆戻りすることになります。そこで時代を振り返って、学校が不足していた時代の人々の苦労を振り返ってみたいと思います。

 1945年(昭和20年)8月、太平洋戦争はポツダム宣言受諾により日本の無条件降伏で終わりました。実はその後も北方ではソ連との交戦状態が続きますが、国土の大半の統治権はGHQに移ることになりました。

 戦時中の学童は、疎開や勤労動員などで学業が中断されていましたが、特に被害の大きかった都市部も含めて元の学校に生徒が戻ることになりました。東久邇宮内閣は平和国家の建設を目指して、謙虚に反省する教育をめざし、敗戦の原因は国民の精神にあると考え「改めて教育勅語を謹読し、その御垂示あらせられし所に心の整理を行われねばならぬ。」(当時の文部大臣である前田多門氏の訓示)とあるように、国体護持(立憲君主制の維持)を前提とした改革を進めようとしました。しかし、軍国主義と極端な国家主義を排除する方針のGHQは、教育内容、教育関係者、教科書を徹底して点検し、方針に合わないものは取り締まるという管理を実行し、軍国主義者を教職から追放し、神道に関わる教育や行事を厳禁、奉安殿(天皇皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物)も撤去、「修身」「日本歴史及び地理」の3教科の授業は中止という、当時の人々にとっては衝撃的な指示がなされました。ここで旧体制による教育は解体されることになりました。

 戦時中の日本で、英語が「敵国語」として排除されていたのと違い、アメリカでは日本、日本語の研究が盛んでした。文化人類学者であるルース・ベネディクト(Ruth Benedict188765-1948917日)の著した「菊と刀」という有名な日本文化論も、戦時中の調査に基づいて書かれています。教育に関してもアメリカの専門家(J.D.Stoddard ニューヨーク州教育長官)らによって日本の戦前の教育に関して詳細な調査がなされており、19463月にはその調査をもとに、6334制と教育委員会の設置による教育行政の分権化、教員養成の門戸開放(それまでの日本では教員のなるには師範学校を出ないとなることができませんでした)など、数多くの詳細な改革を提案しました。

 その提案を受けて、GHQの勧告によって作られた「新教育刷新委員会」が新たな建議や「教育基本法」、「学校教育法」などを中心とする教育法制、教科書の発行・採択制度を次々と生み出していきました。特に教育基本法の第一条(教育の目的)では、「教育は人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身とともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。」と綴られています。第三条では教育の機会均等、第四条では九年制の義務無償教育、第五条では男女共学、第六条では学校教育の公共性の確保、第八条、第九条では政治的宗教的中立、など、今の学校の基本となっている考え方がこの時に作られていきました。

 戦後のこの時期、国民レベルでも国家レベルでも経済は破たんしており、学校の建設や補修はおろか、教員の給与も予算化できない状況でしたが、教育に関する法整備と執行に関してGHQの承認を取り付け、ついに1947226日、政府決定がなされました。しかし、19474月からの6334制への移行が、その約1か月前に決まったのですから各地で大混乱が起きました。青空教室と呼ばれた、戦災で破壊された校舎の跡地や近くの広場での授業は有名ですが、個人の協力や負担を元に物置や工場跡を使った仮校舎での2部、3部授業は当たり前で、机や椅子も生徒持参、持参できない生徒は机の間に板を渡して机替わりにしていたりしたそうです。地方でも学校建設をめぐっては市町村長が引責辞任するなど、悲惨な状況でした。もちろん教科書もノートも無く、筆記用具もありませんが、なんとこの年の小学校の就学率は99.79%と、信じられないような高い数値となりました。当時の人々の学校に対する期待の高さがうかがわれます。

 当時の様子を、その場で教員として働いていた大村はま先生(190662-2005417日、国語教育者)の講演会で、直接体験談を聞く機会がありました。

 壁も天井も壊れた教室がぼろを着た子どもたちでいっぱい。教科書もノートも無い。そこで、先生は自分が弁当として持ってきたサツマイモを包んでいた新聞紙をちぎって生徒に渡してやると、立って柱にもたれて長さが2cmも無いような短い鉛筆でたどりながら、一文字一文字読もうとしている。この一生懸命な姿をみて、子どもの学びたいという本能を知った、という内容だったと思います。大変な環境の中ではありますが、精神的には戦後体制に移行した自由な空気が満ち溢れていたのだと思います。

 高等学校は当時から今と同じように義務教育ではなく入学が自由な学校として設置されましたが、「小学区制」「総合制」「男女共学制」の「高校三原則」が定められました。しかし、男女共学制については男女が同じ教室内で机を並べて学ぶことは強制されず、特にGHQの担当者が寛大であった東日本では戦前の男子校だった旧制中学と旧制女学校をそのまま引き継いだ公立高校が公立の男子校、女子校となって存続しているものも見られます。逆に西日本では担当者が厳しかったので、旧制中学校と旧制女学校の生徒を強引に半分ずつ入れ替えるなどで、公立の男子校、女子校はほとんど残っていません。「共学」というと自由な新しい学校のイメージがありますが、これは強制されたものだと考えるとなんだか複雑です。

 さて、この時にアメリカ軍の統治下であった琉球※は違った道をたどることになります。まず住民は知念や名護、宜野座などのキャンプに入れられ、居住地への帰還が許されたのは1946年の事です。その後、軍政府が琉球の教育を統制する中央機関として「文教部」という機関を作り、学校教育が再開されます。設備としては米軍のテントなどに15歳以下の子どもを集めて授業をするものでした。しかし、軍政府は予算化には消極的で、一クラスにつき一週間で紙の使用は30枚以下(4年生以下)、または50枚以下(5年生以上)、鉛筆は一か月に6本、教員にはチョークが一か月に6本などと制限されており、ほとんど授業のできない状況で、内容も極めて粗末なものだったと言われています。しかし、就学率は高かったようです。米軍の通達で就学の義務は負わされたためだという人もいますが、実は琉球の生徒や保護者は戦前から教育に対する関心はとても高く、1908年で92.8%と高水準になっています。戦後混乱期のデータはありませんが、1954年には99%を超えていたという記録もあります。

 教育法制については、本土と連携を取り、1960年に入ってからは研修会なども共同で実施していたようです。しかし、教科書編纂や課程については独自のもので、当時から小学校1年生から英語教育が行われていました。

 因みに戦前に台北やソウルにも作られた高等教育機関(大学)は琉球にはありませんでした。大学に進むとなると、他のアジア諸国からの留学生と同じように本土の大学に「留学生」として入学していたそうです。しかし、軍政統治下で教員養成学校を母体としてようやく1950年に琉球大学が設立されます。19715月に沖縄返還協定が調停され、1972年に沖縄県が発足したときに初めて本土の制度と統一されました。

 戦後の大きな教育内容の変更点は、知識注入型から「自由研究」や「コアカリキュラム」(子どもの生活の中の問題解決や学びを中心として配置されたカリキュラム)など生徒の立場を重視したものに変化した事です。地理や歴史に関しても、戦前では国家としての正当性を主張するという目的でしたが、地域研究など現代社会の関係を理解し、民主主義社会に対する理解を作るという目的に変化しています。

 さて、このように華々しく始まった戦後教育ですが、その後東西冷戦、高度経済成長、国際化...等々の社会の変化の中で、大学進学率の向上と高校普通科の進学校化、国際科や理数科など様々な学科の誕生など多様化が進んでいきました。冒頭に述べたように少子化の中で、学校数は減少していくことになりますが、より良い教育を受けたい、受けさせたいという子ども保護者の気持ちは戦後も今も変わらないと思います。子どもの選択の幅をある程度保証できる形での学校再整備が求められているのではないでしょうか。

1952年~1972年、今の沖縄県は「琉球政府」によって統治されていました。したがって、ここではアメリカ占領時の呼称で表記しています。

<参考文献>
尾崎ムゲン 日本の教育改革 産業化社会を育てた130年 中公新書 1999
大村はま 教えるという事 共文社 1973
澤岻悦子 「戦後沖縄にみる教育の復興」沖縄の教育復興経験と平和構築 JICA研究所 2005
「教育工学事典」実教出版 2000
「教育の方法と技術」 ぎょうせい 1993
「新教育学大辞典」第一法規出版 1990

 

<文/開成教育グループ 入試情報室 藤山正彦>