2023/08/07
藤山正彦のぷち教育学【食と教育 Nutrition and Education】
学校食堂を運営する業者が、利益が出ないために撤退し、その影響で学食が閉まっている高校があるという新聞記事を先日目にしました。食堂が無くなったから昼ごはんを食べることができなくなるわけではなく、お弁当を持っていけば?パンでも買っていけば?との意見もあるとは思いますが、出来立ての料理を腹いっぱい食べられる機会が無くなるのは生徒さんにとって寂しいことでしょう。
食べることと教育
食べることがすべての教科に勝る
食べることと教育というのはかけ離れた分野のようにも思えますが、実は古くからその関連は語られてきました。日本の医食同源の元祖のような医師、石塚左玄(いしづか さげん、嘉永4年2月4日(1851年3月6日) - 明治42年(1909年)10月17日)は、自著「通俗食物養生法」の中で、「体育智育才育は即ち食育なり」、すなわち食べることがすべての教科に勝ると主張しています。また、当時の栄養学は3大栄養素(炭水化物、脂肪、たんぱく質)だけを重要視しその他のミネラルの作用を軽視している事を問題視し、塩や肉や魚を摂り過ぎればナトリウム過剰となり心身の健康を害する、学童期はカリウムのバランスが多い食事によって身体と学習能力が育つ、など、当時としてはとても先進的な内容も書き残しています。
学校給食の始まり
そこから半世紀ほど時代が下りますが、子どもたちの栄養状態を著しく悪化させたのは第二次世界大戦でした。実は終戦前年の1944年(昭和19年)に6大都市の小学生児童約200万人に対し、米・みそ等を特別配給して学校給食が行われました。しかしほどなく空襲や疎開、食糧事情のさらなる悪化などで中断されてしまいます。戦後は食糧難のため学校給食の再開が困難でしたが、1947年にはアメリカ在住の日系人が中心となって設立した慈善団体「ララ」(LARA ; Licensed Agencies for Relief in Asia:アジア救援公認団体)が提供した日本向けの援助物資を元に、都市部の300万人に対する学校給食が再開されました。1949年にはユニセフから脱脂粉乳の提供を、1950年にはアメリカから小麦の提供を受けたことで、コッペパンと脱脂粉乳がメインの学校給食の原型が出来上がりました。
1952年に日本の主権が回復し、1953年に朝鮮戦争が終わり高度成長期に突入した頃には、日本の食糧事情はかなり回復したため、アメリカからの食糧援助も無くなる事になりました。そうなると地方自治体は給食維持のための財政的負担が増大しますので、学校給食の継続には消極的でした。しかし保護者からの存続を訴える動きが高まり、1954年(昭和29年)についに「学校給食法」が制定、全国の1500万人を超える小学生に「学校教育の一環として」給食が行われるようになりました。
日本の学校給食法施行規則第1条では、「給食」が次のように定義されています。
完全給食=給食内容がパン又は米飯(これらに準ずる小麦粉食品、米加工食品その他の食品を含む)、ミルク及びおかずである給食。
補食給食=完全給食以外の給食で、給食内容がミルク及びおかず等である給食。
ミルク給食=給食内容がミルクのみである給食。
この定義に従うと、どのパターンでも「ミルク」が必須となります。最近ではパンの代わりにご飯が出てくる米飯給食も増えてきましたが、その場合でもなぜかミルクが欠かさずついてくるのは、この法令が根拠となっています。
食育の効果と実情
食と教育、この2つが合体した「食育」という言葉も最近は広く知られるようになりました。2005年(平成17年)6月に制定された「食育基本法」の条文の中には、「食育を、生きる上での基本であって、知育、徳育及び体育の基礎となるべきものと位置付けるとともに、様々な経験を通じて「食」に関する知識と「食」を選択する力を習得し、健全な食生活を実践することができる人間を育てる食育を推進することが求められている」と書かれています。さらに文部科学省のホームページによりますと「近年、偏った栄養摂取、朝食欠食など食生活の乱れや肥満・痩身傾向など、子どもたちの健康を取り巻く問題が深刻化しています。また、食を通じて地域等を理解することや、食文化の継承を図ること、自然の恵みや勤労の大切さなどを理解することも重要です」との解説文書があります。100年以上前の石塚左玄は、何を勉強するにもまず食べることが大切だといった栄養学的段階のみを考えていましたが、現在では、食を通じての地域理解や文化の継承といった人文科学的側面、勤労の大切さといった社会科学的側面にまで、「食育」の効果を広くとらえています。
一方で、現在の日本の「食」に対する実情がよくわかる、ショッキングな論文を発見しました。日本農業実践学園の大村省吾先生と西南女学院短大の木村久江先生は「和食文化・正月料理の摂食状況と課題」という論文のなかで、栄養学を学ぶ学生に、出身地域と正月のおせち料理の内容、それがどのように継承されているのかを調査しています。おせち料理の内容の地域差については広く知られている通り、お雑煮に入れるお餅が丸いのが西日本、九州と香川は焼いてから入れる、関西はすまし汁ではなく、みそを入れる、などの結果が出ました。
一方、「食物専攻の学生の調理参加率―本人主体3.4%、分担11.6%、部分的補助24%の計39%、無回答61%は深刻な事態である。誰からおせちづくりを学ぶか―母から22%、祖父母12%、父3%、姉妹兄弟2%・・・39%が家族系に対し、授業31%、独学11%が対比される。」という記述も見られます。その数値をグラフにしてみるとこのようになります。つまり、食文化や調理に興味があると考えられる食物専攻の学生でさえ、調理に参加しているのは4割以下で、家族からおせちづくりを習おうとする学生も4割以下、つまり家庭の味といいますか、その家独自の食文化の継承を行なっている方が少数派である、という結果を示しています。料理というものは、本に書かれている材料の分量や加熱時間といった記録だけでは再現できず、かつては誰かに教わる(調理師の世界では「盗む」とも)ものでしたが、今ではネット上の情報や動画を参考にすれば、初めて作る料理でも何とかできてしまう、というのも影響しているかもしれません。2013年(平成25年)12月には「和食;日本人の伝統的な食文化」がユネスコ無形文化遺産に登録されましたが、各家庭の「無形文化遺産」が失われようとしているのは残念です。
さて、学校給食の話に戻りますが、かつては「偏食や野菜嫌いなどを矯正する」という観点から、残すことを禁止する(全部食べきるまで昼休みの時間もずっと残されるなど)という恐ろしい(?)時代もありました。(小学生だった私、なぜか当時はきゅうりとセロリが苦手で食べられず、完食できていない事で昼休みに残されそうになったことがあります。そこでひそかに机の中に食器ごと隠して遊びに行きましたが、5、6時間目、ずっとそのにおいを嗅ぎ続けるという苦難に襲われたことを思い出します。もちろん放課後にこっそりと給食室に食器ごと返しに行きました。)今日ではそのような指導は少なくなり、むしろ食べたくないものを友達同士で交換する事が推奨されていたりします。
メニューも今日では結構多彩になっています。「行事食」とよばれる年中行事などを考慮した特別な献立に始まり、郷土理解を図るための「郷土給食」では地域によってはイセエビやアワビなどの高級食材が出るといううらやましい話もあるようです。また「異文化交流」として、友好都市や姉妹都市にちなんだ献立や、サッカーのワールドカップ出場国の民族料理が出された例もあるそうです。
このように考えると、「学ぶために食べる」から「食べることを学ぶ」、さらに「食べることで学ぶ」というように、その互いの役割は変わってきていますが、食と教育の関係はさらに密接になってきたといえるでしょう。
夕食時にさっさと食事を終わらせて一人だけ先に席を立つ受験生もいらっしゃるとは思いますが、時間的に余裕があるときにはその食材の原産地や旬の季節など、食にまつわるお話をするというのは如何でしょうか。季節の食材にも出会うためにも、一緒に食料品のお買い物に行くのも良い学習になると思います。因みに和歌山県にはみかんの産地としても有名な有田市がありますが、「ありた」ではなく「ありだ」と読むことを「有田みかん」の段ボール箱できゅうり嫌いの少年は学んでいたのでした。
参考文献
学校給食法施行規則 (昭和二十九年九月二十八日文部省令第二十四号)1954
学校給食法(昭和二十九年六月三日法律第百六十号)1954
石塚左玄 「通俗食物養生法」 博文館 1898
大村省吾 , 木村久江 「和食文化・正月料理の摂食状況と課題:食専攻学生の調査結果から」日本調理科学会大会研究発表要旨集 25(0), 8, 2013
総務省統計局 人口統計 http://www.stat.go.jp/index.htm
<文/開成教育グループ 入試情報室 藤山正彦>