2025/06/09
藤山正彦のぷち教育学【学びの共同体 The community for learning】
「自習室」といえば、どのようなイメージをお持ちでしょうか。個人の経験や好みによって多少の違いはあるでしょうが、少なくとも騒がしい自習室はだめだ、という点では一致するのではと思います。しかし、それが通用しない世界がありました。
今から20年近くも前の事です。私はとある私立の女子校を放課後に訪問しました。放課後と言えば生徒にとっては自由な時間であるはずですが、グラウンドは静かです。学校の受付まで迎えに来られた先生から「もうすぐ英検®の試験があるので自習している生徒が結構残っていると思いますよ。」と言われ、感心しつつも校舎内はなぜか結構にぎやかだなぁと思いながら教室の前を通り過ぎると、そこにはグループで問題を出しあったり、一緒に踊りながら例文を声に出して読んでいたりと、集団で「自習(?)」している生徒たちがいました。廊下には自学用ソフトが入っているパソコンが置かれていて、そこにも3~4人の生徒が集まって、ああだこうだと話をしながら練習問題に取り組んでいます。
自習と言えば、人の邪魔をしないように一人で黙って勉強をする事以外、許されないと思っていた私は、多少あきれた顔で「いつもこんな状態なのですか?」と先生におうかがいしたところ、「我が校では普段から一人で勉強はしないように指導しています。」という自信満々の返答があり、とても驚きました。しかし、考えてみれば、語学はコミュニケーションツールでもあるわけですから、英語の学習としてはこの方法が正しいのかもしれません。
学習意欲を無くした子ども達
セレスタン・フレネ(1896~1966)というフランスの教育学者は、子どもの生活、興味、自由な表現から芸術的表現、知的学習、個別教育、協同学習、協同的人格の育成を図る教育法で知られています。
1920年、彼は南フランスの山の中の小さな学校に赴任しました。しかしそこで彼を待っていたのは、子どもの世界とかけ離れた教科書とその説明に終始する教師、その反復練習のためにすっかり学習意欲を無くした子ども達でした。彼はやる気を無くした子ども達のために、午後の時間を使って散歩教室をはじめ、村や小川や野原を歩いたり、畑や職人達の仕事場を見てまわったりしました。彼らは好奇心と活力にあふれた表情をみせ、教師と親しげに語り合うようになりました。
フレネは、散歩教室で発揮される子どもの活力を、どうしたら学習の中に持ち込むことができるのかを考えました。彼は教室に印刷機を備え付け、子ども達が綴った文を印刷しそれを教科書にかえて「自由な教科書」として使うことを考えたのです。
やがて彼は、生活を観察し、表現し批評し合うなかで生まれる興味の複合の探究のための学習文庫や協同学習カード、計算や読み書きのためのカードを協同組合方式によって開発しました。これらの学習材と学校文集や学校間通信などの教育技術の裏付けをともなって、教科書による一斉授業の廃止を提唱し、個性化と協同化の2大原理による実践を組織したのです。
最初に紹介した学校の先生方にそこまで取材したわけではありませんが、おそらくこの教育学者の影響を受けているのでは、と感じました。
「教え」と「学び」
この教育学者の影響を受けた実践には次のようにいくつかの「対立概念」を対立と考えないといった特徴があります。
日常的には「個」と「集団」は反対語のように使われ、例えば個性の重視と集団での協調のどちらを優先するか、という議論として使われたりするわけですが、集団によって個人が育つ、育った個人がさらに効果的な集団を作る、という循環で考えれば、どちらを大切にするか、といった議論は不毛であるともいえます。この2つの言葉が対立概念ではなく、互いに支えあう関係になっています。
「教え」と「学び」といった反対語も、人によって役割を固定せず、つまり生徒が自分の得意なところを他の生徒に教えながら、自分も学ぶという関係ができると、先生が引っ張らなくても生徒集団を作るだけで、生徒の学びは進み、その事実によって教師も生徒の能力を学ぶことになります。授業中は目立たないのに、部活になるとやたら元気になる生徒は、かわいい後輩に教える事で自分も学んでいる実感によるものかもしれません。
自分たちで「作品」として教材を作る
「教材」「学習材」と「作品」という学ぶためのものの区別をなくしているのも特徴です。教材は無批判に受け入れなければいけないもの、作品は生徒が作り評価を受けるもの、と考えられますが、自分たちで作品として教材を作ってみるとどうでしょう。先の高校の自習では、生徒自作の選択肢付きの穴埋め練習問題を生徒が黒板に書いて他の生徒に示していました。一人の生徒が、出題した生徒に、「それって答えが決まらないよ。」と意見して、出題した方が教えられるといった場面も見られました。
あとで聞いた話ですが、その学校では、卒業までにほぼ全員が英検®二級に合格するらしく、準一級どころか高校在学中に英検®一級の合格者まで出しているそうで、もちろん先生方の努力もあってのことだと思いますが、この自習方法も効果を出していたのだと思われます。
一方否定的な見方をすると、こういう自習方法は目的意識と時期が揃っていないと実現できないのではと考えられます。確かに同じ日に受験する英検®に皆で合格したい、部活で次の試合やコンクールでいい成績を残したい、といった集団では可能でしょうが、明確な共通の目的意識が無い集団で行うと、単なる暇つぶしのおしゃべり会になる可能性も高いでしょう。それを現象面から抑え込もうというのが一般的な自習室のルール(おしゃべり禁止、携帯電話禁止、飲食禁止...)になっているので、生徒からすると楽しい空間にはならないわけです。最近は私立高校だけでなく、公立高校でも放課後遅い時刻まで自習室を解放している学校が増えてきましたが、残念ながら利用者はそれほど多くない学校も見受けられます。
少し脱線しますが、この「楽しくない自習室」に自分自身を追い込む効果を求める利用者もいます。資格取得などリスキリングをする社会人向けの有料の自習室はこの典型ですし、公立図書館など公共の自習できるスペースを多くの学生が利用している姿も見かけます。コロナ禍の時には自分が自宅で学習している姿をライブ配信する事で、他の配信者と競うという使われ方もありました。このように会話の無い自習室であっても、集団による学習効果が得られる場合もあります。また、別の私立女子高で見かけた光景ですが、その学校には2部屋ブース形式の自習室が設置されています。しかし、とあるブースには参考書や問題集が机上正面にずらりと並べられて(いわゆる「置き勉」状態の拡大版)個人の勉強机のようになっていました。他の生徒が使いにくいという点で学校的には問題かもしれませんが、当該の生徒にとっては居場所が確保されているという安心感があるのでしょう。自習室にも様々な機能があるものです。
生徒が相互に刺激し合って学び合う
学年や学力に差があっても共に学ぶ実践もあります。今まで紹介したのと異なる私立中高一貫校にお邪魔しました。複数の学年(中学1年生~高校2年生)による、英語のプレゼンテーション(長期休暇の家族との思い出)とそれに対する英語での質疑応答という授業を見学させていただきました。その中では、下の学年の生徒でも質問できるように、簡単そうな質問を上級生はしない、下級生の質問の英文が不完全だと、先輩が補ってやる、といった気遣いが見られました。これは授業であって自習のような自主的な学習ではありませんが、生徒が相互に刺激し合って学び合う形を取っており、コミュニケーション能力を育成するという目的も互いに同時に育成できるという効果も期待できます。
このように、先生が正解を効率的に伝えていく授業とは異なった、生徒を主体とした授業実践が広がってきていますが、受験に向けた大量の知識を獲得する場面には非効率にも見える為、放課後の自習ならともかく、学校の授業ともなると、なかなか生徒、保護者からの理解が得られないケースもあるようです。学校の方も事前に説明会を開き、より丁寧に、その目的や効果を伝えるなどの工夫や準備も必要でしょう。
参考文献
佐伯胖・中西新太郎・若狭蔵之助 フレネの教室1 学びの共同体 青木書店1996
フレネ研究会 HP http://freinet-japan.sakure.ne.jp/wp/
「大辞林」(第三版)三省堂 2006
「教育工学事典」実教出版 2000
「新教育学大辞典」第一法規出版 1990
< 文/開成教育グループ 入試情報室 藤山正彦 >