2020/12/07

藤山正彦のぷち教育学【学びと学習 Learning and Studying】

教育学の多くの分野が中心にしているのが、この学習論についてです。生徒の側からすれば効率的な「学習法」を知りたいですし、先生の側からすると、生徒が自発的に学習に取り組むように仕向けることに毎日工夫を重ねています。

さて、今回のお題についてです。学びと学習とは同じ言葉の繰り返しに見えますが、「学び」とは学習者の主体的な営みで、「学習」とは第三者から見た行為を表しています。英語のlearnは習得するという結果を表し、studyは(時間をかけて)学習するという行為を意味するという違いに似ています。ちなみにI studied English hard, so I learned it. という文章は(私は英語を一生懸命勉強(study)したので、英語が身についた(learned))という意味になります。

対立する二つの考え方

 ここで、教育学における、子どもに対する二つの対立する考え方を紹介します。

A :子どもはもともと何も知らないので、適切に導き、指導して、教えることが重要で決定的であるので、教師は積極的に介入し、効率的に知識を教えるべきである。

B 子どもはもともと自分で学び、自分で探求して、自分で世界を認識していく「力」があるので、教師は邪魔せずに見守るだけでよい。

 以前、小欄で西欧の学校は、成立期には刑務所のシステムを参考にしたと紹介しましたが、これはまさにAの考えに基づくものです。一方、子どもの自主性に任せ、カリキュラムを子どもの生活から題材を得て組み替えた大正自由教育運動(明石女子師範附属小学校、奈良女子師範附属小学校、千葉師範附属小学校の実践など)や戦後民主主義教育で教育史に名を残した斎藤喜博による群馬県佐波郡島村の島小学校(現在の伊勢崎市立境島小学校)での実践は、Bの考えを現したものだと言えるでしょう。(斎藤喜博はNHKの「チコちゃんに叱られる」で今の全生徒参加型の卒業式を作った人としても紹介されていました)

一方、ドイツのシュタイナー教育(ヴァルドルフ教育、ヴォルドルフ教育とも呼ばれます)も子ども主体の自由教育との見方もありますが、子どもは「聖なるものへの崇敬の気持ちや祈りの気持ちに親しませる必要」があるとの既存の価値観を植え付けるという意味ではAに分類できると思います。

 さて、保護者の皆様は、学校にどちらの考えを主に求めていらっしゃるのでしょうか。子どもが自ら学ぶ力はその後の人生を過ごすうえで重要ですからBの考えを支持する方もいらっしゃると思いますが、特に受験が近づいた学年のお子様の場合、Bのような悠長なこと言っている場合では無いでしょ、となるかもしれません。実は学校の先生はこの矛盾にいつも挟まれています。もちろん保護者や生徒の要望もどちらかひとつではありませんし、研究授業が上手くいけば、「子どもの動きがすごい」「表情が生きている」など、学習者の状態、つまりBの考えからの評価を受け、失敗すると、「教師の発問が未熟だ」「教師の介入しすぎだ」とAの技術が未熟なことを指摘されるわけです。教育学を学ぶ前の私自身も、(恥ずかしながら教育学を学んだのは塾講師を始めてからです)効率よく物事を教えない教師を頼りないと思いつつ、逆に暗記と小テストばかりで知識を押し込めようとする授業には、これでは生徒が勉強嫌いになるだろうと批判的になるなど、授業に対する矛盾した評価基準を持っていたものです。

 ここで、あるひとつの実践を紹介します。 ロサンゼルスの下町の公立高校の数学(幾何)の教諭であるヒーリー先生による徹底して生徒に「教えない」授業です。

 まず、四人一組のグループを作ります。そして、そこに「探求シート」という幾何学の基本命題がひとつ書かれたシートが配られ、その下にそれに関して大切だと思われることをグループで判断して書く、という作業をします。そこで、得られた結論が、クラスの「教科書」に書き込まれ、そこからテストが出題されるというものです。そして、議論しながらさらにそれを深めていく、というだけの一般的な教科書を全く使わない授業です。  一人の生徒が仮説を立てると、班の全員でそれを検証します。その中から平面図形における約束事(直線は途切れたり曲がったりしない、平面は曲面ではなく、無限に広いなど、)を共有していくことになります。その過程で角度の一周が360度なのはどうしてであるか、ピタゴラスの定理の新たな証明法を見つけるなど、教科書からはみ出したレベルまで追求されたそうで、その結果、標準テストでのこの学校の最高点はこのクラスから出たのでした。

 このように共同作業を通して行われたこの主体的な学習は、教師が知識を伝達する従来の授業に比べて結果的に効率的であったともいえるわけです。もちろんこれと同じような自由な授業を日本の学校で行うことは出来ませんが、子どもの主体性を生かしつつ、効率的な知識定着が出来たという点では理想的な実践だといえるでしょう。

「学び」の目的とは

 「学ぶ」という言葉は「まねぶ」、つまり真似をするという言葉が語源だという説があります。確かに文化の伝承には真似をすることが欠かせません。たとえば祭囃子などの伝統芸能は、昔から徹底した模倣で伝えられてきましたし、録画録音技術が進んだ今日でもその方法は変わりません。また、一般社会でも、たとえば新入社員は研修やマニュアルを通じてだけでなく、先輩の言動を真似て一人前になっていきます。絵画や囲碁・将棋、音楽の世界でも、まずは昔の作品や棋譜、演奏法をコピーすることから始めます。  それでは、やはり「学ぶ」ことも、既存の何かを身につけることになるので、結局能率が要求される知識や方法の習得が目的なのか、ということになってしまいますが、アメリカ、エモリー大学のマイケル・トマセロ教授によると、このような「文化的学習」はそれぞれ何かの知識や技能を身につけることがゴールではなく、他者との関係を広げていき、他者とコミュニケーションを持ち、協力し、協同で何かをやり遂げる能力にまで高めている、と述べています。先の祭囃子の例を使って説明しますと、先輩たちと同じ事が出来ることを目的とするのではなく、真似をする過程で、またはその結果得られた先輩との信頼関係の中で、祭りの意味や楽しみ方を能動的に「学んでいる」と考えるわけです。その結果、祭囃子は過去と全く同じではなく、より充実したものに変化していった場合もあるのでしょう。(もしそうでなく、コピーが繰り返されただけなら劣化するはずです。)

 そこで、理想の「学び」について私なりの結論を導きますと、最初は模倣としての学習(たとえば数学の公式を丸暗記するなど)から入っても良いので、ひとまず点数が取れたとすると、学校の先生や塾の先生に様々な質問ができる人間関係が生まれます。そしてその教科の面白さを教えてもらうことや、それによってさらに自分で調べること、その教科が好きな友人と議論をすることなどで、雪だるま式に知識が増える・・・。このように終わりのない学習意欲が「学び」なのではないかと思います。以前、定期試験の期間に帰宅途上の灘高生数名の集団と電車で一緒になったことがありますが、彼らは先ほど終わった数学の問題を、どのような方法で解いたのかを楽しそうに紹介しあっていました。その内容も個性的な工夫に満ちており、互いに良い刺激になっていたようです。彼らはテストで点数を取るためではなく、終わってからのこのような会話を楽しむために試験勉強をしていたのではないか、と感じられました。

「学び」は「自分探しの旅」

 最後に、東京大学名誉教授の佐伯 胖(さえき ゆたか)先生の著書から一部を引用します。

学びがいというのは、学ぶことの価値とか学ぶ意義のようなものへの、漠然とした希望をいだいていることを意味している。(中略)ところで、学ぶということは、予想の次元ではなく、むしろ希望の次元に生きることではないだろうか。「こういうことが、いついつまでにできるようになる」ことを目的とするのではなく、いつどうなるか、何が起こるかの予想を超えて、ともかくよくなることへの信頼と希望の中で、一瞬一瞬を大切にして、今を生きるということのように思える。

子どもがよく学ぶとしたら、それは希望の次元に生きているからであろう。また、大人が学べないとしたら、それは、大人の世界に希望の次元が喪失しているからである。(中略)

ところで、この「自分にとって本当に学びがいのあること」を探す、ということは、いい換えると、本当の自分とは何か、を捜し求める「自分探しの旅」だといい換えてもいいだろう。(中略)「本当の自分」とは、今あるこの私そのものではない。(中略)また、「本当の自分」というものが、どこかにあって、それが見つかれば全てが完結する、というものでもない。これが本当の自分かと思われるところに行き着けば、そこでさらに先が見えてきて、さらに進んだ「もっと本当の自分」探しがはじまる。したがって、学びとは、終わることの無い自分探しの旅なのである。

 点数や合格を目標に頑張る「学習」は大切ですが、お子様が試験後や合格後も勉強を続けたいとおっしゃったら、それはもう「学び」に転化したということです。その「学び」=「自分探しの旅」を是非応援していただきたいと思います。

参考文献

C.C.Herly, "Discovery courses are great in theory, but...," in J.L.Schwartz, M. Yershalemy & B. Wilson(Eds.), The Geometric Supposer: What is it a Case of?  Hillsdale, NJ: Lawrence Erlbaum Associates, 1993

佐伯胖 「『学ぶ』ということの意味」 岩波書店 1995

酒井玲子「ルドルフ・シュタイナーの精神 (霊性) の教育観」、『北星学園大学文学部北星論集』第29巻、北星学園大学、19923

高橋勝 「子どもの自己形成空間」 川島書店 1992

Tomasello, A. C. Kruger & H. H. Ratner, "Cultural learning," Behavioral and Brain Sciences, 16, 1993

<文/開成教育グループ 入試情報室 藤山正彦>