2022/01/11

意外と知らない?【三権分立とはなにか(前編)】

 前回の記事(『意外と知らない?【日本の選挙制度】』記事はこちら)では衆議院選挙と参議院選挙の違いについてまとめました。今回から2回に分け、記事内で登場した「三権分立」というキーワードについて理解を深めていきます。

 今回は三権分立という制度が生まれた背景についてお伝えします。

 日本のみならず、多くの国の政治体制に大きな影響を及ぼしている「三権分立」は公民分野でもとても重要な単元です。高校の政治経済だけでなく中学校の公民のテストでも頻出の分野なので、今回の記事を読んで理解を深めてほしいと思います。

 まず「三権分立」の「三権」とは、国家の権力を「立法・司法・行政」という3つの権能に分けたものを指します。日本ではそれぞれの権能を国会、裁判所、内閣が分担していると前回の記事で紹介しました。権力の暴走や濫用を防止することを目的としています。

三権分立_政治経済.png

 かつて、多くの国では絶対君主制という国王や皇帝などが国の頂点に立って絶対的な権力を掌握する政治体制がとられていました。これは君主が国の統治について全ての権能を所有しており、自由に権力を行使することができる体制のことを指します。

イギリスやフランスなどでもこの絶対王政がとられていました。国王という立場は神様によって与えられたと信じられており、とても強い権力を持っていました。当時も議会はありましたが、国王の決定には逆らえない構造でした。

 17世紀にイギリスでは絶対君主制による国王の権力の濫用がありました。この頃のヨーロッパではキリスト教が広く信じられていました。イギリスでもローマ教会が強い影響力を持っていましたが、ある国王がローマ教皇に離婚を認めてもらえなかったことや国民への影響力を強めたいと言うことなどを理由としてイギリスのオリジナルである英国国教会が設立されました。そして国王にとって都合の良い英国国教会の信徒以外が議員になることが禁じられたり、信仰しないひとたちへの政府による弾圧が発生したり、といった問題がありました。

宗教はとても難しい問題であり、どのような宗教や神様を信じるかは一人一人が決める権利をもつはずです。それを制限しようとする国王に反発して、イギリスではピューリタン革命と名誉革命(総じてイギリス市民革命と呼ぶこともある)が発生しました。名誉革命ののちには議会が提出した「権利の章典」への新国王による署名によって、絶対君主制から立憲君主制へと政治体制を変動させていきます。

 このイギリス市民革命に影響を受けて、フランスの思想家モンテスキューが『法の精神』で国家権力の三権分立を体系化しました。モンテスキューの前にすでにイギリスの思想家ロックが『市民政府二論』において権力を分立させることによって統治者が国民の権利を侵した場合に抵抗する権利を持たせるべきであるという主張を説いていました。ロックの主張ではあくまでも議会の権力を優位に立たせるものでしたが、それに対してモンテスキューは三つの権力には優劣はなく相互に監視する役割を持たせるべきであるとしました。

 フランスでも同じ時期に絶対王政への反発が生まれ、革命、そして三権分立を基礎とする立憲君主制の成立へとつながっていきます。

当時のフランスの国民は宗教に携わる聖職者の身分と貴族、それ以外の平民という3つの身分に大きく分けられていました。もちろん国民のほとんどは平民です。しかし、フランスの政治体制では国民の大半を占めるはずの平民の意見は反映されないという問題がありました。また、国王が議会を開くことを拒否していたため、貴族にとっても政治に参加する権利が奪われていました。フランス革命自体はこれだけが原因で発生したわけではありませんが、とても大きな要因の一つとなっています。

 フランス革命中に採択された「フランス人権宣言」では、このような身分による権力の偏りへの反省に基づき、人間は生まれながらにして自由かつ平等な権利を持っており、国のあり方や政策などを決める権利は国民がもっているという内容が盛り込まれています。そして、フランス革命を通じて立憲君主制へと移行していきました。

 以上のように、特定の一個人あるいは一団体に権力が集中してしまうことで、その他の多くの国民が苦しんでしまった事例が歴史上にいくつもあります。誤った方向に進んでしまっているときに、そのストッパーがないと国そのものの存続が危うくなってしまうのです。このような反省から、権力を分散させてお互いに監視させあうことで、権力濫用を防止させるために三権分立が成立したのです。

<文/開成教育グループ 個別指導部フリステウォーカー講師編集部:高山萌々子>